当科は、硝子体手術の施行数では全国トップクラスの実績を誇っており(平成22年1月10日読売新聞掲載、「2008年の硝子体手術施行数の比較」によれば、全国3位の950症例/年)、現在に至るまでも、網膜・硝子体領域での手術手技や治療法においては、精力的に発表や講演を行ってきている。よって、当科において開発している低侵襲硝子体手術の手技は、十分に社会に対して影響を与えうると考えられる。
また、前記の通り、勤労者医療では職場復帰までの期間が重要な課題であり、治療に費やす時間の負担を軽減することで受診率が向上し、さらには視力低下による退職率の低下に繋がっていくと考えられる。現在の少子高齢化の流れの中で、有効な労働力は不足していくことが予想され、その中で十分な労働力を確保していくためには、勤労者に健康な状態で働き続けてもらうことが大切であり、低侵襲硝子体手術により短期入院と早期社会復帰を実現させることは、その目的に大きく寄与すると考えられる。
網膜硝子体疾患による急性視力障害に対する治療法の研究開発
研究目的:期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか
現在、本邦における後天的な失明原因の主要疾患として、糖尿病網膜症がある。我々は、平成16年より開始された第1期研究において、糖尿病網膜症患者の各病期(経過観察期、光凝固術期、硝子体手術期)における、就業状況や患者の生活背景、視力の推移とQOL(quality of life)との関わりなどについて調査してきた。これによれば、糖尿病網膜症の悪化による視力低下によって、退職を余儀なくされる勤労者が少なからず存在しており、この傾向は特に若年勤労者に多くみられることが分かった。この原因を推測すると、若年勤労者の場合、治療の為とはいえ容易に職場を離れられない現実があるのでは無いかと考えられる。また、治療後の復職率についても調査したが、一度退職に至った勤労者の場合、仮に視力が回復したとしても、殆どの症例で職場への復帰や再就職は未達成であった。以上の結果より、勤労者の就労継続のためには、通院しやすい環境を整えた上で、退職させずに治療を継続できる環境を整備することが大切であると考えられた。
増殖糖尿病網膜症に対して従来行われてきた硝子体手術では、一般的なものでも2週間前後の入院期間を必要としており、重症例では1カ月程度の入院を必要とすることも多い。この治療に要する時間の長さこそが、勤労者を治療から遠ざける原因となっており、また就労者を退職に至らしめる原因の一つとなっている。
最近普及しつつある低侵襲硝子体手術は、手術による患者の侵襲を大幅に軽減できる可能性があり、術後の早期回復、早期職場復帰に繋げることのできる治療法と考えられる。しかし、低侵襲手術の機材が登場してから、まだ数年しか経過しておらず、その有用性は広く認識されているとは言いづらい。また、現状では手術手技に関しても成熟していると言うにはほど遠く、また多くの病院ではその導入すらまだ検討段階であることも多い。
よって、今後の研究の目的としては、重症化した増殖糖尿病網膜症に対し、現在ある器具と昨今登場した新しい照明系や眼内を観察するレンズなどを組み合わせることで、安全かつ確実に治療できる技術を確立することが、第一であると考えている。また、低侵襲硝子体手術を行うことで、実際に入院期間が短縮され、勤労者の就労の継続に繋がっていくかどうかを、当科で手術を施行した患者に行ったアンケートのデータを基に調査していく予定である。
当該分野における本研究(計画)の学術的特色、独創的な点及びその予想される結果と意義
国内外の関連する研究の中での本研究の位置づけ
①低侵襲硝子体手術に関する研究・開発
本研究に類似した内容は、国内外ともにほぼ皆無である。今後、労働力の減少が懸念される我が国において、国民の健康を守り、有用な労働力を確保して行くことは国策に準ずる重要な課題であると考えられる。
中間評価までの研究経過
研究の進行状況
(国内外の研究状況)
第1期での研究において、糖尿病網膜症患者を「経過観察群」と「光凝固群」、「手術群」の3群に分類し、アンケートを施行していたが、その際エントリーした531名(経過観察群211名、光凝固群140名、硝子体手術群180名)には、継続してアンケートに協力頂いている。また、今期の研究を開始するに当たり、アンケートへの協力患者を追加登録しており、現在までに94名を新たに登録するに至っている。これにより、更に多くの症例を対象として、長期間の統計を取ることが可能となった。
新たに得られた知見及び予想していなかったが今回研究を進めてきて得られた知見
研究の進行状況
前述の通り、積極的に低侵襲手術を施行することで、平成19年までの低侵襲手術の施行割合は硝子体手術全体の1割にも満たなかったが、本年にはほぼ9割に近い症例に低侵襲硝子体手術を適用することが可能となっている。
この、著しい増加の背景には、昨今登場した硝子体を照らす新光源や、硝子体を観察するレンズなどの光学系の進歩が大きく寄与していると考えられる。従来の光源では、硝子体の一部分しか照らすことは出来なかったが、最近の光源ではほぼ眼底のすべての部分を一度に照らすことの出来るものが登場している。また、それに伴って、眼底を観察するレンズにおいても、従来は眼球を圧迫し変形させることでしか治療し得なかった部位を、眼球を歪ませることなく観察し、治療を可能にする広視野観察法が登場してきている。眼球に余計な力を加えず、必要最少限の治療を短時間で行って手術を終えることこそが、究極の低侵襲治療であると我々は考えており、その実現のための器具や手技を積極的に取り入れて行くつもりである。
次に、入院期間に関しての新たな試みとして、これまで長期間の入院を必要とした難症例に対しては、分割治療を推し進めて行きたいと考えている。分割治療とは、1回の入院期間を1週間以内に減らし、複数回に分けて治療を行っていくというもので、1回の入院あたりの患者の負担を軽減することを目的としている。現在の日本の網膜剥離手術の主流は、眼内に六フッ化硫黄ガスや八フッ化プロパンガスを注入し、その浮力で網膜を元あった場所に復位させるものである。この方法では、どうしても厳格な体位制限が必要であり、2,3週間程度の入院が必要となるが、ヨーロッパではガスの代わりに、シリコンオイルを術終了時に眼内充填することでこの問題をクリアしている。シリコンオイルの場合、ガスのように減少することが無いので、充填期間中はずっと網膜を伸展させることが出来る。このシリコンオイルを応用して、3日程度の入院後に一旦退院し、3ヶ月程度後に再度入院しシリコンを抜去するという方法が欧米では行われている。
欧米では、入院費の問題や、自宅と病院間の移動に飛行機を使わねばならず、眼内にガスを入れづらい事情があるため、シリコンを用いた治療をせざる得なかったと考えられる。しかし、難症例に対しては日本でもこの方法を採用することで、勤労者の入院期間の軽減と手術治療のコンプライアンス向上につなげることが出来ると思われる。
平成20年3月に、本邦においてもシリコンオイルの使用が厚労省の認可を得ており、今後、短期間の入院を希望される患者の場合には、積極的にシリコンオイルを用いた手術を行っていきたいと考えている。